かつて日本は銀大国でした、石見銀山遺跡とその文化的景観

こんにちは、家庭教師みつけ~るの荻原です。
今回は日本の世界遺産について詳しく見ていきたいと思います。みなさん、日本にはいくつ世界遺産があるか知っていますか??
なんと25個も認定されています!(2022年現在)

今回は石見銀山遺跡とその文化的景観について学んでいきたいと思います。

世界遺産への登録の経緯

「石見銀山遺跡とその文化的景観」は島根県大田市にあり、「銀鉱山跡と鉱山町」「石見銀山街道」「港と港町」に分類される14の資産によって構成されています。登録面積は、構成資産が529.17ヘクタール、保護緩衝地帯が3,133.83ヘクタールです。

石見銀山は1527年に発見され、戦国時代から江戸時代初期にかけて栄えた銀山です。石見銀山で採掘された銀は国内のみならず、明、ポルトガル、オランダなどの貿易に利用されました。19世紀になると採掘量が落ち込み、1923年に休山します。以後衰退するものの、1957年に地元住民が「大森町文化財保存会」を結成し、石見銀山遺跡の保護活動に乗り出します。
1969年には6つの間歩などが国の史跡に、1998年には鉱山業で力をつけた熊谷氏の邸宅である熊谷家住宅が重要文化財に指定されます。2002年には広域保存を目的として、銀山柵内、港、山城跡などを含む320ヘクタールが国の史跡に指定されました。2004年には温泉津の街並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されます。こうした努力が実を結び、2007年に世界文化遺産に登録されました。産業遺産としてはアジア初で、世界遺産に登録された日本で唯一の鉱山遺跡です。

世界遺産に登録された理由

世界遺産の登録基準は以下の10条があります。

  1. 人類の創造的才能を表現する傑作。
  2. ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  3. 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  4. 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  5. ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
  6. 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの。
  7. ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
  8. 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
  9. 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
  10. 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」は2,3,5の基準を満たしています。どのような点が評価されたのか、わかりやすく見てみましょう。

①世界の経済と文化交流を支えた銀の産地

石見銀山は16世紀に開発されてから、約400年にわたって銀を産出しました。16~17世紀にかけて世界で流通する銀の3分の1が日本で採れたものでした。そのうちの大部分が石見銀山で採掘されたものです。石見銀山は世界の経済を支えた世界有数の銀山として評価されています。

石見銀山で大量の銀が採掘できた背景には、「灰吹法」という技術の存在があります。灰吹法は1533年に東アジアから伝わった技術で、銀を鉱石から鉛に溶け込ませ、銀が溶け込んだ鉛を灰の上におき、今度は銀だけを抽出する方法です。これによって銀の生産量が格段に増えました。

石見銀山で採掘された銀は当初は明を中心に流通しました。16世紀にポルトガルやオランダが来航すると、交易を通じて世界に広まっていきます。日本は銀を輸出するかわりに、絹、鉄砲、弾薬などの他、建築技術や作物の栽培方法、算術などを得ていました。石見銀山は東洋と西洋の文化交流に貢献したとして高く評価されています。

②炭鉱遺跡が良好な状態で保存されている

石見銀山には銀を採掘するために掘られた間歩(トンネルのような穴)が大量に残っています。「大久保間歩」は最大級の間歩で、高さが5メートルにもなります。「龍源寺間歩」は採掘に使われたノミの跡を実際に目にできます。
日本は鎖国政策を行っていたことから、近代的な採掘技術が流入するのは1800年代になってからのことでした。石見銀山は16~17世紀に最盛期を迎えたこともあり、遺跡からは近代的な採掘技術が流入する前の採掘、製錬、精錬方法を見出すことができ、資料的価値も認められています。

③自然と港、街道などが一体となった文化的景観

「鞆ケ浦街道」と「温泉津沖泊道」は、銀山で採れた銀を港まで運び出すための街道です。「石見城跡」などの城跡は銀山の支配権を争った歴史を物語っています。住宅跡や街並みからは銀で財をなした商家の暮らしぶりを、佐毘売山神社や羅漢寺からは鉱山労働に携わった人々の信仰をうかがい知ることができます。
「石見銀山遺跡とその文化的景観」には、自然と共存しながら石見銀山周辺で暮らしてきた人々の生活が残っています。また、今も人々が生活を続けており、自然と人の営みが一体となって作り出す景観が評価されています。

石見銀山遺跡の歴史

石見銀山は1300年頃に銀が発見されたとう言い伝えがあります。本格的な開発は1527年に、大内氏の支援のもとに行われました。銀は世界的にも貴重であったことから、石見銀山をめぐる争奪戦が大内氏、尼子氏、毛利氏の間で行われます。1584年に毛利氏が豊臣秀吉に服従すると、豊臣方と毛利氏の共同管理となりました。江戸時代には幕府の直轄地となります。最盛期は16世紀から17世紀で、銀の採掘量が減ってからは銅の採掘もおこなわれました。江戸時代末期には銀がほとんど取れなくなり、1923年に休山しました。
石見銀山では1333年に灰吹法が導入され、銀の生産効率が上がります。採掘された銀は鞆ヶ浦道や温泉津沖泊道を通って鞆ヶ浦の港や沖泊の港へと運ばれ、各地に輸送されました。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」を構成する資産は14つです。鉱山遺跡の本体である「銀山柵内」をはじめ、「代官所跡」「矢滝城跡」「矢筈城跡」「石見城跡」「大森銀山重要伝統的建造物群保存地区」「宮ノ前地区」「重要文化財熊谷家住宅」「羅漢寺五百羅漢」「鞆ヶ浦道」「温泉津沖泊道」「鞆ヶ浦」「沖泊」「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」が、広範囲に点在しています。

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